2012年11月 5日 (月)

来年どころか来世の事言うたら、鬼が笑いますやろか

家の中でも手を繋ぎ、
「おっぱして(=おんぶしてほしい)」と言わぬ間に、
「ほれ、おっぱしたろか」と屈んで背中を見せた祖父だった。

愚かなほどの盲愛ぶりに、家のもん(=家人)は呆れ果てた。
町内のおっちゃんやおばちゃんからは、
「松はん(まつはん=松尾さん)のおもちゃやがな」の言葉も出た。
が、そんな事は一切気にすることもなく、
「孫の可愛さいうもんは、こりゃもう、特別や」
と言っていた。

祖父は明治33年(1900年)生まれ。
たった一人の実の娘を、7歳で亡くしている。
養子にした私の父と嫁いできた母との間にできた血の繋がりのない孫。
それが私だ。

昭和33年(1958年)生まれの孫の私への愛情のかけ方は、
〝のぉなった(=亡くした)娘の代わり〟というよりは、
〝わし好みの女に育てあげたい〟の感が先行していたように思う。

幸か不幸か、祖父は気の強い女が好きで、
「お蔭で、うち(=私)かて、そないなって」
と苦笑いしてきた。

今は50代半ば。
祖父は、私が25歳の時に彼岸に渡った。
「ほな、あれやわ。おじいちゃんとは、四半世紀(=25年間)ほど離れてるんやわ」
ふと口にした〝離れてるんやわ〟に気付いて、
「〝離れてるんや〟やなんて言うてしもたわ。この分やったら、来世かて、どこぞで生まれて、またおじいちゃんと孫の関係でいくんやろなぁ~」
祖父の顔がチラついて、プッと吹き出してしまった。

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2012年10月 4日 (木)

人さんの手ぇ借りて育てる子供かな

今、つくづく思うことがある。
離れて暮らす長女は今年28歳、次女は25歳になる。

長女が小学4年生、次女が小学校に入学する時には、すでに夫と事実離婚の状態で、別居生活を送っていた。

別れた夫は歯科医。
その父親は産婦人科医だった。

医者の家に家具屋の娘が嫁ぎ、そこに生まれた孫を、私の父母は扱いづらいようだった。
〝敷居の高い家の子〟とでもいうのか……。
孫であることに違いはないが、私が祖父母に育てて貰ったような
『全てを大きな懐に包み込む』
という感じは受けなかった。

近頃、周囲の若い子たちから
「結婚決まりました。子供も早く欲しいんです。あの、まだ先の話ですけど、子供ができたら、どんな事に注意すればいいですか?」
と尋ねられる機会が増えてきた。

「できるだけ、仰山の手ぇが、子ぉに入る方がええ。ええ人も、あんまりそやない人も、色んな人の手ぇ借りて、子育てしていくのが、一番ええわ」
きっぱりと、即答する。

『うちは、それに失敗した』と思ってる。
人から見ればしっかりした母親と、しっかりした娘二人のように見えただろう。
だが、母と娘二人だけが歩む細い道は、結果的に世間が狭く、物の見方が極端になりがちだ。

自戒を込めて、
「子育ては人さんの手ぇ、たんと借りや。やがて度量の大きな子ぉに育つさかい」
そう思っている。

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2012年8月 7日 (火)

何がどないなるか分からしまへんわ

昭和33年(1958年)生まれの私は、5歳まで同じ年齢か、自分の年齢に近い子供と遊んだことがない。

祖父母の家で、そこに集う明治・大正・昭和初期生まれの人たちの会話の中で育った。
大阪弁を中心に、
「どんな相手で」
「どんな関係で」
敬語の使い方が変わるのかも、自然と身に着いた。
まったりとしているようで、めりはりのあるそんな世界が好きだった。

「大人の世界ばっかりもあかんやろ」
というので、父母は私を3歳になると保育園に入園させた。
ここは子供ばかりの世界。
私が親しんできた大人の節度や秩序ある世界ではなかった。
「ここ、うち、イヤや」
入園後、脱走を続け、通った日は3日間もない。

母は翌年の始業式の翌日、園の門前で
「イヤや~」と泣き叫ぶ私を園内に押し込んで、とにかく4歳の保育園児の形をつけた。
しかし、この日も母が帰ってから、先生方の隙を見て保育園から逃亡。

祖父母はとうの昔に
「この子、(保育園に)通わすのは無理や」と思っていたようだ。
だがその言葉は時期が来るまで言わずにいた。

父母の抱く
「おじいちゃん、おばあちゃん育ちはあかん。ほんまに、もう、こないに手ぇつけられへんよな我がままな子ぉになってしもて。どないぞして、保育園で治してもらわな」
の気持ちを察していたのだろう。

黙って様子を見ていた祖父母だったが、4歳の登園通算3日目に、一旦登園をして脱走する毎度の姿に、不憫さが先に立った祖父が
「もうええがな。こない嫌がるんや。(保育園に)行かんでもええやろ」
の一言で、保育園から解放された。

「ヤッター!」という喜びよりも、
「やれやれ。これで、やっと今まで通り、好きに一人で遊べる」と思った。
やけに大人びた『やれやれ』感に満たされたことを、53歳になったこの年齢でもはっきりと思い出す。

そんなこんながあって、古い大阪弁に満たされた世界で再び好き放題に過ごせたことが、今、こうして大阪弁に特化したブログを綴る源(みなもと)となっている。

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2012年7月12日 (木)

素直と片意地

明治生まれの祖母の言う
「人さんのゆうてくれる事は、素直にききや」
片意地通すよな、そんなアホなこと、しぃなや」
その言葉は、今も身の内に残っている。

※片意地
(かたいじ=意固地:いこじ/どんなに間違っていても、意地を張り通すことの意味を持つ)

両親の言う事には、大抵、
「そやけど、お母ちゃん」
「お父ちゃんはそない言うけど」
と素直になれない。

原因は、勝気な父母の気持ちの根底にある、「子ぉに舐められてたまるかい!」であり、
親は親として立てるが、「うちの言うてること、まちごてないもん」の気持ちが私から抜けないからだ。

ところが、亡くなった祖母や、可愛がってくれた町内のおっちゃんやおばちゃん、幼い日に遊んでくれたお姉ちゃんたちからかけられた言葉には、全面降伏並みにどんな時でも
「うん」と心(しん)から答える。

80歳手前になっても変わらない父母の言動に接すると、
「他人さん(たにんさん)とは、うまいこといくのに……」
嘆くでもなく、むしろ諦めに近い感情が50半ばの私にはある。

「おばあちゃん、一番難しのは、親に素直になることやわ」
朝から祖母の顔が浮かんできて、そう呟いた。

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2012年7月 3日 (火)

ほな、いこか(では、出発)

昭和33年(1958年)生まれの私。
3つか4つの頃ともなると、電車を乗り継ぎ、大阪市内の親戚の家に、祖父母と手を繋いでついて行った。

祖母が一人で向かう時は、家を出る前に必ず
「今日はおばあちゃん一人で行くんやさかい、しっかり歩くんやで。ほんで、おばあちゃんから離れたらあかん。ええか?」
と念を押された。

「もしもや、そんなことあってはならんけども、おばあちゃんとはぐれて(逸れて:大阪弁〝見失ってしまう〟しもたら、どないするんや?」
と問われる。
この時にこそあるような真面目な顔をして、
「おまわりさんとこ行く」と答える。

「おまわりさん、ちょうどええ塩梅にいてたらええけど、いてへんかったらどないするのや?」
の問いかけに、
「誰ぞに〝おばあちゃんとはぐれた。うちの名前は松尾成美。家は和歌山県伊都郡高野口町(いとぐん こうやぐちちょう:現 橋本市高野口町)。電話は……」
氏名・住所・電話番号・父の名前を諳んじるのを確認後、
「ほな、いこか(では、出発しましょう)」
祖母は正座していた座布団から腰を浮かせた。

当時の祖母は、身長152cm程で、体重は80kg。足のサイズは21cmという、非常にバランスの悪い体だった。
祖母は幼い孫を見失うまいとし、私は『おばあちゃん、ひっくりかえったら、えらいこっちゃ』と思う気持ちがあった。
互いを思いながら、行き帰り、祖母と手を放すことはなかった。

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2012年5月22日 (火)

人さんの幸せをねごて(願う)

時期は過ぎたが、毎年の5月5日の子供の日の光景は、40年過ぎてもはっきりと思い出す。

朝一番に、祖母が頼んであった和菓子屋さんから、10個の柏餅を入れて1パックになっている包みが、木製の餅箱で2段分届く。

「今年も仰山やわぁ~」と、先ず思う。
小学5年生くらいだっただろうか?
私と妹は、祖母からの指示にそって、町内に住む、祖父母の知人で、大抵はお孫さんがいるお宅に手分けして届けに向かった。

「ごめんください、松尾です~。あの、これ、おばあちゃんから、みなさんで食べてもろてって」
「あのまぁ、毎年、すまんこって。おばあちゃん、ほんまにこないして、気ぃつこてくれてから。おおきに、おおきに。有難く頂戴しますとゆうといてな」

どこのお宅でも同じような言葉を貰い、すぐに帰宅。
次の配達先を聞くと、私と妹は、小中高時代は自転車で、それ以降は、単車で走り回った。


祖母には『久子』と名付けた娘がいた。
元々虚弱体質で、「小学校に久子をおんぶして行ったこともある」と話す祖母の顔には、『それも嬉しかった』の色が見て取れた。
だが、可愛い盛りの7歳の時に、祖父母はたった一人授かった実子を病で亡くした。

「人さんのお宅の子ぉが、どうぞ、元気に育ってくれるよに(ように)」
そんな願いを込めて、祖母の5月5日があった。


年中行事に込められた祖母の柏餅配りの手伝いは、53歳の私に影響している。
大したことはできないが、それでも何かある度に
「○○さんのことおもたら(思ったら)、こんな時、 どんな事をしたら、ええ方(ほう:方向)にいくのやろか?」
と考える大本(おおもと:根源)になっている。

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2012年4月30日 (月)

トホホな思い

「自分のことだけやのぉて、人さんのこと、考えなならんのやで」
<対訳:自分のことだけを考えず、他人のことを考えなさいね>

こう祖母に言って育てられてきた。

私のとった行動が、結果的には人を甘やかすことになり、
「だってあなたには甘えて当然」
の態度をとられるときがある。

「これぐらい、やってくれて当たり前でしょ」から始まり、
「お金を貸して」だの、こちらに甘えてくる内容にもよるが、
「この甘えは、この先、この人にとっては何一つためにならんわ」
と思うとカチンとくる。

祖母の教えである、
「自分のことだけやのぉて、人さんのこと、考えなならんのやで」
の言葉を思い出すとき、
「失敗してしもたぁ~。おばあちゃんの言葉、取り違えもええとこやわ」
そんなトホホな思いを数限りなくしてきた。

「今日もトホホな思い、背負いながら生きていくんやわ」
これが本音だけれど、
「それがうちやわ」
自分で自分を納得させる。

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2012年4月11日 (水)

ツケでこぉた花かんざし(ツケ<月末清算>で買った花かんざし)

満開の桜の花を下から見あげて、
「ほんまに、花かんざしみたいや~」
溜息を洩らしながら、見入ってしまう。

小さな頃、花かんざしを数本持っていた。
髪が長く、普段は祖母に三つ編みにして貰っていたが、お正月には、祖母行きつけの〝髪結いさん〟(=美容院)で、『新日本髪』を結い上げて貰っていた。

「今年は、ほんちょっと桃割れみたいに、ゆうて(結って:ゆって)みたけど。おばあちゃん、どないです?」
必ず、髪結いさんは祖母に確認をとって、
「よぉでけたわ。赤い鹿の子も髪の間から見えて、映えるなぁ。よろし、よろしわ」
と祖母は応えた。

その後、今年用意の花かんざしを前髪部分にそっと挿し入れて、出来上がりだ。

昭和30年代半ば、花かんざしは、年末になると祖父に手を引かれて、町の小さな化粧品や髪飾りなどの小間物を置いている店に買いに行った。
買ってくれることに、正直、喜びはなかった。
というのも、
「ツケ(大阪弁:<大阪ことば事典 牧村史陽 編 講談社学術文庫 より抜粋>月末勘定)にしといてんか」
そういうのが分かっていたからだ。

まだまだ幼い子が、ムスッとした大人びた表情で祖父を見て、
「どうせ、ツケなんやろ」
と言ったことを鮮明に覚えている。
『おじいちゃんやのぉて、おばあちゃんが払うんやろ』
と思うと、申し訳なくて、祖父に笑顔は見せられなかった。

しかしだ。
髪結いさんで、花かんざしを挿して貰った瞬間から、嬉しくて、笑顔は一日中持続した。

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2012年3月23日 (金)

優しいキス

昨夜は27歳のイケメン:キイチと神田で食事をした。
うちの長女のアイの幼馴染で、私にとっては愛しい息子そのものだ。

もう24年も前のこと。
キイチとアイが3歳の時、キイチ一家は仕事の都合で実家のある静岡に帰ることになった。
新大阪の新幹線ホームで、車両のドアを境に、私はアイを抱き上げ、キイチはキイチのママに抱っこされて向き合っていた。
もうすぐドアが閉まる直前、キイチがアイの頬を小さな両手でそっと包み、優しくて切なさが伝わるようなキスをした。
その行為を目の前で見た母親たちは、「へっ?!」と唖然としたまま固まった。

やがて、ドアは静かに閉まり、新幹線は滑るように走り始めた。
抱きかかえたままのアイを見れば、何事もなかったかのように、
「バイバイ」と遠のく新幹線に手を振り続けていた。
一方、キイチはドアが閉まってから、
「アイとは別れたくなかったんだよ~」と京都まで泣き続けたと、後日、キイチのママからの電話で知った。

そんなことがあったキイチは、結婚も考える年齢の立派な青年になった。

家族関係も、家族のそれぞれの性格まで知っているキイチとの話は尽きない。
二人で向き合いながら、色んな話をした。

とろけるような楽しいひと時を過ごすことができたほっこり感は、今朝も続いている。
「あぁ~、しあわせ~」で、今日も一日が始まった。

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2012年3月10日 (土)

三途の川は飛んで来い

3つか4つの頃に、母方の曾祖母が亡くなった。
今、息を引き取ったばかりだという曾祖母の布団の横に、母が泣いて座り、幼い私がそのねきに(大阪弁:そば)に正座していた。
その光景は実にはっきりと覚えている。

そうして自宅で息を引き取る姿、いや、実際には息を引き取った後の姿を見た。
曾祖母の死は、非常に自然な形だと、小さくても受け入れることができた。

「こんな小さかったら、死ぬって、どんなことかわからんやろ」という人もいるが、
「この目の前で寝てるよなひぃおばあちゃんは、もう動けへん人になってしもたんや。お喋りもせぇへんねんわ」
そんな思いで、横たわる曾祖母を見て、すぐねきで泣いている母を感じていた。

生の延長に死があると思ったのは、もっと先のことだが、原体験はこの時点だ。

私は今年で54歳になる。
そこそこ生きてきたし、満足感もある。
「このまま生きて、その先に、ふ~っと知らん間ぁに、死んでいくのやろなぁ」
そんなことも考えないでもない。

体調不良の時に、ほん、たまーに、彼岸にいる私を溺愛していた祖父が、
「おい、三途の川なんぞ、渡らんでもええ。ビューンと飛んで来い。おじいちゃんが待ってたるさかいに」の声と、
「何いうてはんのや、この人は。成美、あんたは、まだまぁ、こっちにこんかてええのやで。ほんまにもう、おじいちゃん、ええ加減にしぃ!」
の祖母の声が耳の奥で聞こえるときがあって、一人、ケラケラと笑ってしまう。

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