2009年12月21日 (月)

大阪弁:とんがらし(唐辛子)

明治生まれの祖父は、孫の私に対して、とにかく構いたがり(世話をしたがる人)だった。
殊に、衣・食にはうるさかった。

祖父とおうどんを食べるときは、薬味の量に気をつけた。
「子供の時分に、とんがらし(唐辛子)をよぉけ入れて食べるもんやない」
小学生の間は、出されたおうどんに七味唐辛子をかける量を見て、多すぎると、「そないかけて、食べられるんか?」と問われた。
自分でも『しもた。多かったみたいや』と思っても、自分でしでかしたことなので、「気遣いないもん(大丈夫よ)」と言って食べた。

何度か、食べ終わった丼の底に、紅い七味唐辛子の粉が沈んでいることもあった。
言葉には出さないが、『ほれ、みてみ。辛かったのに』と思っている祖父の目を感じた。

ある時、辛みのきつい一味唐辛子をかけ、これが思いの外刺激が強かった。
一杯のおうどんを食べている間に唇の周りが痺れてしまう程だ。
この時も、祖父の『ほれ、みてみぃ。わしはあかんと思てたんや』の視線を感じたが、何でもない風にやせ我慢した。
祖母は表情も変えず、思春期に入ろうとする孫に、さらりと「お茶、たぁんと飲んどき」と言いながら、丼鉢を下げた。
もう、40年程も前の話だ。

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2009年12月15日 (火)

大阪弁:いっかど(一角)

もう50年近く前の話になる。

大人顔負けに喋る幼児の私を相手に、祖父母の周りの人達は、「ほんまにこの子ぉ、いっかどの口きいてから」と呆れていた。
大阪弁の『いっかど(一角)』とは、『相当な』という意味で使われた。
この場合、「いっかどの口をきく」といのは、決して褒めているのではない。
祖母のように理詰めで話す内容に、「あのまぁ、この子は口が達者すぎて、敵わんなぁ」と呆れているのだ。

中には、「あたおとろし(とても怖い)。フフフ」と笑っている人もいた。
こちらは本当に怖いというのではなく、苦笑いのようなものだ。

いっかどの口をきくおませな子は、それから50年程の時間を経過して、「今まで生きてきた中でなんやかんやとあった事も、うちには良かったんや」と、いっかどの口をきく意外にしぶとい(タフな)おばちゃんになった。

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2009年12月11日 (金)

そぉれん(葬礼=葬儀)のお弁当

この間、母の幼馴染みの女性が事故で亡くなった。
電話で話す母の声は、「70過ぎまで生きてきて、事故で死なんでもええのに。可哀想な」と、はじめはショックを受けていた。
話をしている間に、「まぁ、今頃は、向こうで先に逝った子ぉらと賑やかにしてることやろ」と落ち着き、やがて自分の葬儀の段取りの話へと移っていった。

一通り母の言う事を聞いてから、私が「お母ちゃん、うちとこは皆、長命やろ。そやさかいに、お母ちゃんがのぉなっても(亡くなっても)、おそらく、お母ちゃんの同級生はいてへんのとちがうやろか? 同級生やら知ってる人やらを呼んで、皆で賑やかに見送って欲しい言われても、今思てるほど、盛り上がれへんと思うねんけど」と伝えた。
母は「そうかもしれへん。ほなな、葬礼のお弁当、あれはケチらんといてや。頼んどくで」とのこと。

妹に電話をして、「お母ちゃんがこない言うてた」と伝え、二人で「数は多めに、中身の充実したお弁当に」と合意した。
が、現在97才の祖母が元気なことを考えれば、「後20年は先になるかもしれへん葬礼弁当の事を相談してもなぁ」と、互いに笑い声を立てて電話を終えた。

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2009年12月 9日 (水)

大阪弁:「おだいっさん(お大師様)」

大阪弁では、「飴ちゃん」や「お芋さん」など、名詞に、『ちゃん』や『お○○さん』を付ける言葉は多い。
どんな単語にも『ちゃん』をつけて通るかと言うと、そうでもない。
「油揚げ」の事は、「あげさん」とも「おあげさん」とも言うが、「あげちゃん」とは言わない。

何に『お』がついて、どんな名詞に『さん』がついて、でもこんな名詞には『ちゃん』はつかないなど、「これはこう」と言えるものはないのだが、「なんとのぉ、雰囲気で使い分けてる」のが実態だ。

それに、「お寺さん」と言えば、「寺」自体を表わすときもあれば、「僧侶」を指しているときもある。
話の内容や、前後の流れから、理解して貰うしかない。

「神様」・「仏様」は「神さん」・「仏さん」と呼び、例えば「不動明王」なら「お不動さん」と言うのが一般的だ。
弘法大師のことは、「おだいっさん(お大師様)」と呼んで、ぐっと身近な存在として捉えている。
そう言えば、35年程前の私が高校生の頃、放課後の教室に数人が残り、トランプをしていた。
一人、高野山から通っていた子がいて、負けそうになると、「僕にはおだいっさん(お大師様)が付いている!」と冗談で言ったのが可笑しかった。

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2009年12月 7日 (月)

祖父母育ちの得なこと

私の場合は、祖母が最も身近な存在で、また尊敬し、信頼できる人だった。
話す言葉のベースは、やはり祖母の話し方にある。
言葉の選び方、使い方が祖母に近いと、今でも思う。

小さな頃、例えば、「井の中の蛙や」と祖母が評する人は、「了見の狭い人ということやな」と思っていた。
明治生まれの祖父母と共に過ごしていたので、使う言葉も上記のように『考え方の狭い人』ではなく、『了見の狭い人』という表現の方がしっくりきた。
年相応の言葉遣いになったのは、小学校に入ってからだ。
同じ年の子達と集団生活をするようになって、「了見って、皆は使えへんみたい」と感じ始めた。

祖父母の元に来る人達も、私の父母よりもかなり年上で、明治・大正生まれの人達だ。
こうして、自身とはうんと世代の違う人達がいる環境の中で育ったお蔭で、同じ年頃の子達に比べると、自然と言葉の数は増えていった。

「大人と同じ様に喋る子ぉや」
「話しててみぃな。ほんまに、大人顔負けやで」
町内の人達は、半ば呆れてこう言った。
けれど、よくよく考えてみると、今の物書き業には役立つことが多いので、「やっぱり、あの環境は有難いことやわ」と思っている。

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2009年11月30日 (月)

カップアイスは1/2

今から思うと「致し方なかったんやろ」と思う事がいくつかある。

今年亡くなったマイケル・ジャクソンと同じ昭和33年(1958年)生まれの私は、明治生まれの祖父母に育てられた。
祖父母は実の娘をを7才で亡くしている。
元々体が弱かったようで、「がっこへ行てから(学校に入学してから)しばらくしたら、わてがおぶて(私が負んぶをして)通た日もあった」と祖母は話していた。

それから20数年が経ち、私の父が松尾家の養子になり、その10年後に母が嫁いできた。
父母の間には、翌年、長男が生まれたが早産で、たった1日だけの生涯を終えた。

その翌年に生まれたのが私だ。
祖父母は「滋養にええもん」と、孫の体を心配した。
「おじいちゃんやおばあちゃんは、こんなもんや」と、漢方薬に砂糖を入れて飲まされるのも大して疑問にも思わず、「体にええのやで」と言われたら飲んでいた。

カップ入りアイスクリームを小学3年生までは、「お腹が冷えるさかいに」と、1個を一人で食べるのは「あかん」と言われた。
祖父が「ほな、これだけや」とカップの真ん中に線を入れて、私が半分、残った溶けかけた半分を祖父が食べていた。
ある時、祖父に「一人で1個食べたい!」「あかん!」「食べたい!!」「いかんのや!!」と押し問答があって、祖母の「もう食べてもよろしがな」の一言で1個完食が実現した。
嬉しかったはずだが、その思いは残っていない。
祖父がしばらく機嫌が悪かったのだけは覚えている。

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2009年11月24日 (火)

請けおぉた事(請け合った事)

どんな時も、『うちの仕事は原稿を渡すまでや』と思っている。

かつて、ラジオドラマでかなりの人数のライターと仕事をしてきたディレクターから、「君は一度も僕の演出に文句を言わないけれど、なぜ?」と問われた事があった。
「書くのがうちの仕事で、渡した原稿を、それから後、どない弄ってもろても、それは演出をするお方のもんやと思てまっさいかい」と答えた。
このディレクターは私よりも一回り以上年上で、大阪弁をよく判っている人物だったので、言葉もすんなりそのままで話せ、真意もスムーズに伝える事ができた。

舞台の場合は、演技者・脚本家・演出家・舞台装置家・大道具さん・小道具さん・音響さん・照明さん・舞台監督さん<通称:舞監さん(ぶかんさん)>らが、夫々、プロ意識を持って、磨いてきたセンスや実力を発揮できるかが、「うまい事いくかどうかの分かれ目かもしれへん」と感じる。
そして、媒体の違いはあるが、「うちが思てるプロ意識は、請けおぉた事(請け合った事)を、どこまで職人になってやり通せるかと言うことやわな」と、考えるこの頃だ。

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2009年11月16日 (月)

人生、長いか短いか

人は、『一生』や『たった一度の生(せい)』とか言うけれど、「生きている時間は短いわ」と、この頃にになって感じてます。
“一生”が、「できることなら“二生”あっても悪ないかもしれへん」と思うようになったんは、仕事が忙しなったせいでっしゃろ。
時間が、ほんまにはよ(=早く)経っていきますのや。

うち(=私)のイメージする人生は、50mのプールを往復し、100m、つまり100才まで泳ぐと言うものでおました。
何しろ長命の筋でっさかい、「100才まで楽勝や」と思てます。

40代の半ばから、ターンする壁が見えてんのに、そこに『手ぇが届きそうで届けへん』の感覚が強うて、苦しおましわ。
特に、47、48、49才の頃は、1年間がヒィヒィ、ハァハァの体(てい)で、毎朝耳元でゴボゴボという水音が聞こえてくるよな始末。「長いなぁ、長いなぁ~」の日々やったと思い返してます。
50才になった朝、「折り返しや!」と思た時から、それまで流れていた水音が消えてしもて、身も心も軽なったのを覚えてます。
今年51才の誕生日に、「うちは我ぁが強いよって、今みたいに来るもの拒まずの仕事のやり方は60まで。なんや(=何だか)、60過ぎたら我ぁを押さえて生きていく力が弱なるような気がして……ほんで、60才からどないするかは、またその時に決めたらええわ」と思いました。

人生は「長いなぁ~」と感じる期間と、「えらい短いがな」と感じる期間があるということを、この年齢になって初めて知りました。

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2009年11月10日 (火)

かかりつけのせんせ(先生)

新型インフルエンザが流行っている。
かかりつけの医師がいればいいが、なければ診て貰う所を探す人も多いだろう。

ひどい蕁麻疹が小学校の低学年頃までしばしば出ていた私は、かかりつけの内科・小児科のせんせ(=先生:医師)がいた。

昭和33年(1958年)生まれの私が、5才前後の頃のお話だ。
その先生の前にチョコンと座ると、先生は、「今日はどないしたんや?」と問いかけた。

先生は町内で“へんこつ(=偏屈)”で通っており、診察室に入るなり(=入った途端)患者が「先生、風邪ひいてしもて」と言うと、「ほぉ、自分で風邪と診断できるなら、医者はいらんな」と返す先生だった。
皆は「難しお人や」と陰で言っていたが、私は“なんとのぉ好きなせんせ(=何となく好きな先生)”だった。

「どないしたんや?」と問われると、「ポンポン痛い(=お腹が痛い)」と答えて、「ほな一遍診よか」と言いながら、腹部の触診が始まった。
大便の状態を答える時も、この頃は「びっちんやった(=下痢だった)」と言っていた。

やがて、『ポンポン』は『おなか』と言うようになり、『びっちん』は『お腹通した』とか『お腹下した』になり、高校生の頃には『下痢』と言うようになっていた。

いつを境に幼児語が抜けていったのか、自分でも定かでない。
年齢がいくに従って、言葉の数も言葉遣いも変わっていった。

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2009年11月 5日 (木)

大阪弁:「キチキチ」

冬物の洋服を出して、その内の何枚かを着てみた。
「まぁ何とかいけるわ」
去年着ていた服とサイズが変らず、ホッとした。

大方の服は、更衣の時に整理し、「良かったら、使てくれる?」と着てもらえそうな人に渡してきた。
だが、「キチキチになってしもたけど、この服、好きやさかい」と、毎年着られないままに、1年2年3年と時だけ経ってしまう洋服もある。
「着たいんやったら、痩せなあかんわなぁ~」
同じ言葉を、今年で4年間言っている。
自分で言っておいて「あかんわなぁ~」と伸びる独り言に、『本気で思てないの丸わかりや』と思う。

さて、『キチキチ』は大阪弁で目一杯の状態を指す言葉だ。
今の大阪の子は「この服、きっつい、きっつい」と言ったり、「この服、パンパン」と言う表現も使っている。

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