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2012年8月

2012年8月28日 (火)

ビジネスマナー:「こりゃ、どもならん!」編

前々から、ヤフーオークションを利用している。
大阪弁で言う「セコ」・「セコハン」(=中古品<今風にいうならUSED>も、新古品も、新品もある。
運よく、「あぁ、うれし」と思う金額で落札できるときもある。

問題は、その後の『振込案内のメール』だ。
商品を出している人(=出品者)からのメールに、住所・氏名は書いてあっても、電話番号がない事も多い。
もっとひどい場合は、名前(姓)しか連絡してこない人もいる。

この時点で、「こりゃ、どもならんがな! なんぼなんでも、最低限のビジネスマナーというもんがおまっせ」と腹が立つ。

そこで下記のようなメールを先方に送る。

〝この度は、お世話になります。
商品を落札致しましたが、○○様からのご連絡には、電話番号がございません。

ネット取引はお顔の見えない商取引です。
急な連絡が必要な場合もございます。
連絡のつく電話番号を明記してくださいますか?

よろしくお願いします〟

名前(姓)しか表示してこない出品者には
〝この度は、お世話になります。
商品を落札致しましたが、○○様からのご連絡には、お名前の表示しかございません。

このオークションは見ず知らずの者同士が、ネットを通して、信用し、商取引を行うものです。

出品者の住所や電話番号の記載がないのは、当方の不安につながります。

当方の住所・氏名・電話番号は、すでに記しています。
あなた様の住所・氏名(フルネーム)・電話番号をお教えください。 

よろしくお願いします〟


書いている私の心中は
『お宅さんが振込案内をもろた時、思い出してみぃな。
 
・郵便番号
・住所
・会社名
・電話番号
・HPアドレス
・会社のメールアドレス
これだけのもんが書いてあったと思うのやけれど。
今回でいうたら、せめてお宅の電話番号<または、住所・氏名・電話番号>は書いておくべきこと』

カチンと来ている心を抑え、最後に『
よろしくお願いします』と書き、送信する。

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2012年8月24日 (金)

「オトン」・「オカン」も、「オジン」・「オバン」も大嫌いやけれど……

明治生まれの祖父母は、
「オトン」・「オカン」も、「オジン」・「オバン」も、決して誰からも呼ばせなかった。
また、祖父母にそんな呼び方をする人もいなかった。

祖母は、自らのことを「わてはおとんぼ(乙ん坊=末っ子)で」と言い、自分の父親のことは「てておや」と呼び、母親のことは「ははおや」と呼んでいた。

他人に、
「あなたのお母さんは、どう考えているの?」
と問いかけるときは、
「お宅のおかぁはん(=あなたのお母様)は、一体、どないな考えで?」

あるいは、実際、何か言っているだろうと想像できる状況なら、
「おうちのおかぁはん(=あなたのお母様)、どないゆうてなはんのや?」
と、ゆったりと構えて話を続けていた。

「オトン」・「オカン」も、「オジン」・「オバン」も
「品のない呼び方や」と嫌っていた祖母だ。
が、ただ一人、その祖母を「オバン」と呼び、ちょいちょい(=ちょくちょく)祖父母宅に顔を出す祖母の甥:ミスオさんがいた。

「ミスオは苦労してんのや。若い時分に(布の)裁断機で、指、のぉなって(=なくして)」
昭和30年代~40年代にかけて、高度成長期の繊維産業の盛んな土地柄ゆえに、給料の良い所に働き手は動く。
ミスオさんは繊維関係の職工だったが、今思うと、結構、勤め先の工場を変わっていたような気がする。
字が下手で、履歴書を書くことになると、
「オバン、すまんな」
と言って、履歴書を祖母に渡した。
祖母は、時々、今までの職歴をミスオさんに確認しながらきちんと書いた。

ミスオさんの「オバン」には優しさがこもっていた。
情(じょう)を含んだ「オバン」と言う響きを、祖母はフッと笑って聞いていた。

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2012年8月 7日 (火)

何がどないなるか分からしまへんわ

昭和33年(1958年)生まれの私は、5歳まで同じ年齢か、自分の年齢に近い子供と遊んだことがない。

祖父母の家で、そこに集う明治・大正・昭和初期生まれの人たちの会話の中で育った。
大阪弁を中心に、
「どんな相手で」
「どんな関係で」
敬語の使い方が変わるのかも、自然と身に着いた。
まったりとしているようで、めりはりのあるそんな世界が好きだった。

「大人の世界ばっかりもあかんやろ」
というので、父母は私を3歳になると保育園に入園させた。
ここは子供ばかりの世界。
私が親しんできた大人の節度や秩序ある世界ではなかった。
「ここ、うち、イヤや」
入園後、脱走を続け、通った日は3日間もない。

母は翌年の始業式の翌日、園の門前で
「イヤや~」と泣き叫ぶ私を園内に押し込んで、とにかく4歳の保育園児の形をつけた。
しかし、この日も母が帰ってから、先生方の隙を見て保育園から逃亡。

祖父母はとうの昔に
「この子、(保育園に)通わすのは無理や」と思っていたようだ。
だがその言葉は時期が来るまで言わずにいた。

父母の抱く
「おじいちゃん、おばあちゃん育ちはあかん。ほんまに、もう、こないに手ぇつけられへんよな我がままな子ぉになってしもて。どないぞして、保育園で治してもらわな」
の気持ちを察していたのだろう。

黙って様子を見ていた祖父母だったが、4歳の登園通算3日目に、一旦登園をして脱走する毎度の姿に、不憫さが先に立った祖父が
「もうええがな。こない嫌がるんや。(保育園に)行かんでもええやろ」
の一言で、保育園から解放された。

「ヤッター!」という喜びよりも、
「やれやれ。これで、やっと今まで通り、好きに一人で遊べる」と思った。
やけに大人びた『やれやれ』感に満たされたことを、53歳になったこの年齢でもはっきりと思い出す。

そんなこんながあって、古い大阪弁に満たされた世界で再び好き放題に過ごせたことが、今、こうして大阪弁に特化したブログを綴る源(みなもと)となっている。

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