2009年12月21日 (月)

大阪弁:とんがらし(唐辛子)

明治生まれの祖父は、孫の私に対して、とにかく構いたがり(世話をしたがる人)だった。
殊に、衣・食にはうるさかった。

祖父とおうどんを食べるときは、薬味の量に気をつけた。
「子供の時分に、とんがらし(唐辛子)をよぉけ入れて食べるもんやない」
小学生の間は、出されたおうどんに七味唐辛子をかける量を見て、多すぎると、「そないかけて、食べられるんか?」と問われた。
自分でも『しもた。多かったみたいや』と思っても、自分でしでかしたことなので、「気遣いないもん(大丈夫よ)」と言って食べた。

何度か、食べ終わった丼の底に、紅い七味唐辛子の粉が沈んでいることもあった。
言葉には出さないが、『ほれ、みてみ。辛かったのに』と思っている祖父の目を感じた。

ある時、辛みのきつい一味唐辛子をかけ、これが思いの外刺激が強かった。
一杯のおうどんを食べている間に唇の周りが痺れてしまう程だ。
この時も、祖父の『ほれ、みてみぃ。わしはあかんと思てたんや』の視線を感じたが、何でもない風にやせ我慢した。
祖母は表情も変えず、思春期に入ろうとする孫に、さらりと「お茶、たぁんと飲んどき」と言いながら、丼鉢を下げた。
もう、40年程も前の話だ。

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2009年12月15日 (火)

大阪弁:いっかど(一角)

もう50年近く前の話になる。

大人顔負けに喋る幼児の私を相手に、祖父母の周りの人達は、「ほんまにこの子ぉ、いっかどの口きいてから」と呆れていた。
大阪弁の『いっかど(一角)』とは、『相当な』という意味で使われた。
この場合、「いっかどの口をきく」といのは、決して褒めているのではない。
祖母のように理詰めで話す内容に、「あのまぁ、この子は口が達者すぎて、敵わんなぁ」と呆れているのだ。

中には、「あたおとろし(とても怖い)。フフフ」と笑っている人もいた。
こちらは本当に怖いというのではなく、苦笑いのようなものだ。

いっかどの口をきくおませな子は、それから50年程の時間を経過して、「今まで生きてきた中でなんやかんやとあった事も、うちには良かったんや」と、いっかどの口をきく意外にしぶとい(タフな)おばちゃんになった。

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2009年12月11日 (金)

そぉれん(葬礼=葬儀)のお弁当

この間、母の幼馴染みの女性が事故で亡くなった。
電話で話す母の声は、「70過ぎまで生きてきて、事故で死なんでもええのに。可哀想な」と、はじめはショックを受けていた。
話をしている間に、「まぁ、今頃は、向こうで先に逝った子ぉらと賑やかにしてることやろ」と落ち着き、やがて自分の葬儀の段取りの話へと移っていった。

一通り母の言う事を聞いてから、私が「お母ちゃん、うちとこは皆、長命やろ。そやさかいに、お母ちゃんがのぉなっても(亡くなっても)、おそらく、お母ちゃんの同級生はいてへんのとちがうやろか? 同級生やら知ってる人やらを呼んで、皆で賑やかに見送って欲しい言われても、今思てるほど、盛り上がれへんと思うねんけど」と伝えた。
母は「そうかもしれへん。ほなな、葬礼のお弁当、あれはケチらんといてや。頼んどくで」とのこと。

妹に電話をして、「お母ちゃんがこない言うてた」と伝え、二人で「数は多めに、中身の充実したお弁当に」と合意した。
が、現在97才の祖母が元気なことを考えれば、「後20年は先になるかもしれへん葬礼弁当の事を相談してもなぁ」と、互いに笑い声を立てて電話を終えた。

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2009年12月 9日 (水)

大阪弁:「おだいっさん(お大師様)」

大阪弁では、「飴ちゃん」や「お芋さん」など、名詞に、『ちゃん』や『お○○さん』を付ける言葉は多い。
どんな単語にも『ちゃん』をつけて通るかと言うと、そうでもない。
「油揚げ」の事は、「あげさん」とも「おあげさん」とも言うが、「あげちゃん」とは言わない。

何に『お』がついて、どんな名詞に『さん』がついて、でもこんな名詞には『ちゃん』はつかないなど、「これはこう」と言えるものはないのだが、「なんとのぉ、雰囲気で使い分けてる」のが実態だ。

それに、「お寺さん」と言えば、「寺」自体を表わすときもあれば、「僧侶」を指しているときもある。
話の内容や、前後の流れから、理解して貰うしかない。

「神様」・「仏様」は「神さん」・「仏さん」と呼び、例えば「不動明王」なら「お不動さん」と言うのが一般的だ。
弘法大師のことは、「おだいっさん(お大師様)」と呼んで、ぐっと身近な存在として捉えている。
そう言えば、35年程前の私が高校生の頃、放課後の教室に数人が残り、トランプをしていた。
一人、高野山から通っていた子がいて、負けそうになると、「僕にはおだいっさん(お大師様)が付いている!」と冗談で言ったのが可笑しかった。

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2009年12月 7日 (月)

祖父母育ちの得なこと

私の場合は、祖母が最も身近な存在で、また尊敬し、信頼できる人だった。
話す言葉のベースは、やはり祖母の話し方にある。
言葉の選び方、使い方が祖母に近いと、今でも思う。

小さな頃、例えば、「井の中の蛙や」と祖母が評する人は、「了見の狭い人ということやな」と思っていた。
明治生まれの祖父母と共に過ごしていたので、使う言葉も上記のように『考え方の狭い人』ではなく、『了見の狭い人』という表現の方がしっくりきた。
年相応の言葉遣いになったのは、小学校に入ってからだ。
同じ年の子達と集団生活をするようになって、「了見って、皆は使えへんみたい」と感じ始めた。

祖父母の元に来る人達も、私の父母よりもかなり年上で、明治・大正生まれの人達だ。
こうして、自身とはうんと世代の違う人達がいる環境の中で育ったお蔭で、同じ年頃の子達に比べると、自然と言葉の数は増えていった。

「大人と同じ様に喋る子ぉや」
「話しててみぃな。ほんまに、大人顔負けやで」
町内の人達は、半ば呆れてこう言った。
けれど、よくよく考えてみると、今の物書き業には役立つことが多いので、「やっぱり、あの環境は有難いことやわ」と思っている。

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2009年11月30日 (月)

カップアイスは1/2

今から思うと「致し方なかったんやろ」と思う事がいくつかある。

今年亡くなったマイケル・ジャクソンと同じ昭和33年(1958年)生まれの私は、明治生まれの祖父母に育てられた。
祖父母は実の娘をを7才で亡くしている。
元々体が弱かったようで、「がっこへ行てから(学校に入学してから)しばらくしたら、わてがおぶて(私が負んぶをして)通た日もあった」と祖母は話していた。

それから20数年が経ち、私の父が松尾家の養子になり、その10年後に母が嫁いできた。
父母の間には、翌年、長男が生まれたが早産で、たった1日だけの生涯を終えた。

その翌年に生まれたのが私だ。
祖父母は「滋養にええもん」と、孫の体を心配した。
「おじいちゃんやおばあちゃんは、こんなもんや」と、漢方薬に砂糖を入れて飲まされるのも大して疑問にも思わず、「体にええのやで」と言われたら飲んでいた。

カップ入りアイスクリームを小学3年生までは、「お腹が冷えるさかいに」と、1個を一人で食べるのは「あかん」と言われた。
祖父が「ほな、これだけや」とカップの真ん中に線を入れて、私が半分、残った溶けかけた半分を祖父が食べていた。
ある時、祖父に「一人で1個食べたい!」「あかん!」「食べたい!!」「いかんのや!!」と押し問答があって、祖母の「もう食べてもよろしがな」の一言で1個完食が実現した。
嬉しかったはずだが、その思いは残っていない。
祖父がしばらく機嫌が悪かったのだけは覚えている。

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2009年11月24日 (火)

請けおぉた事(請け合った事)

どんな時も、『うちの仕事は原稿を渡すまでや』と思っている。

かつて、ラジオドラマでかなりの人数のライターと仕事をしてきたディレクターから、「君は一度も僕の演出に文句を言わないけれど、なぜ?」と問われた事があった。
「書くのがうちの仕事で、渡した原稿を、それから後、どない弄ってもろても、それは演出をするお方のもんやと思てまっさいかい」と答えた。
このディレクターは私よりも一回り以上年上で、大阪弁をよく判っている人物だったので、言葉もすんなりそのままで話せ、真意もスムーズに伝える事ができた。

舞台の場合は、演技者・脚本家・演出家・舞台装置家・大道具さん・小道具さん・音響さん・照明さん・舞台監督さん<通称:舞監さん(ぶかんさん)>らが、夫々、プロ意識を持って、磨いてきたセンスや実力を発揮できるかが、「うまい事いくかどうかの分かれ目かもしれへん」と感じる。
そして、媒体の違いはあるが、「うちが思てるプロ意識は、請けおぉた事(請け合った事)を、どこまで職人になってやり通せるかと言うことやわな」と、考えるこの頃だ。

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2009年11月16日 (月)

人生、長いか短いか

人は、『一生』や『たった一度の生(せい)』とか言うけれど、「生きている時間は短いわ」と、この頃にになって感じてます。
“一生”が、「できることなら“二生”あっても悪ないかもしれへん」と思うようになったんは、仕事が忙しなったせいでっしゃろ。
時間が、ほんまにはよ(=早く)経っていきますのや。

うち(=私)のイメージする人生は、50mのプールを往復し、100m、つまり100才まで泳ぐと言うものでおました。
何しろ長命の筋でっさかい、「100才まで楽勝や」と思てます。

40代の半ばから、ターンする壁が見えてんのに、そこに『手ぇが届きそうで届けへん』の感覚が強うて、苦しおましわ。
特に、47、48、49才の頃は、1年間がヒィヒィ、ハァハァの体(てい)で、毎朝耳元でゴボゴボという水音が聞こえてくるよな始末。「長いなぁ、長いなぁ~」の日々やったと思い返してます。
50才になった朝、「折り返しや!」と思た時から、それまで流れていた水音が消えてしもて、身も心も軽なったのを覚えてます。
今年51才の誕生日に、「うちは我ぁが強いよって、今みたいに来るもの拒まずの仕事のやり方は60まで。なんや(=何だか)、60過ぎたら我ぁを押さえて生きていく力が弱なるような気がして……ほんで、60才からどないするかは、またその時に決めたらええわ」と思いました。

人生は「長いなぁ~」と感じる期間と、「えらい短いがな」と感じる期間があるということを、この年齢になって初めて知りました。

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2009年11月10日 (火)

かかりつけのせんせ(先生)

新型インフルエンザが流行っている。
かかりつけの医師がいればいいが、なければ診て貰う所を探す人も多いだろう。

ひどい蕁麻疹が小学校の低学年頃までしばしば出ていた私は、かかりつけの内科・小児科のせんせ(=先生:医師)がいた。

昭和33年(1958年)生まれの私が、5才前後の頃のお話だ。
その先生の前にチョコンと座ると、先生は、「今日はどないしたんや?」と問いかけた。

先生は町内で“へんこつ(=偏屈)”で通っており、診察室に入るなり(=入った途端)患者が「先生、風邪ひいてしもて」と言うと、「ほぉ、自分で風邪と診断できるなら、医者はいらんな」と返す先生だった。
皆は「難しお人や」と陰で言っていたが、私は“なんとのぉ好きなせんせ(=何となく好きな先生)”だった。

「どないしたんや?」と問われると、「ポンポン痛い(=お腹が痛い)」と答えて、「ほな一遍診よか」と言いながら、腹部の触診が始まった。
大便の状態を答える時も、この頃は「びっちんやった(=下痢だった)」と言っていた。

やがて、『ポンポン』は『おなか』と言うようになり、『びっちん』は『お腹通した』とか『お腹下した』になり、高校生の頃には『下痢』と言うようになっていた。

いつを境に幼児語が抜けていったのか、自分でも定かでない。
年齢がいくに従って、言葉の数も言葉遣いも変わっていった。

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2009年11月 5日 (木)

大阪弁:「キチキチ」

冬物の洋服を出して、その内の何枚かを着てみた。
「まぁ何とかいけるわ」
去年着ていた服とサイズが変らず、ホッとした。

大方の服は、更衣の時に整理し、「良かったら、使てくれる?」と着てもらえそうな人に渡してきた。
だが、「キチキチになってしもたけど、この服、好きやさかい」と、毎年着られないままに、1年2年3年と時だけ経ってしまう洋服もある。
「着たいんやったら、痩せなあかんわなぁ~」
同じ言葉を、今年で4年間言っている。
自分で言っておいて「あかんわなぁ~」と伸びる独り言に、『本気で思てないの丸わかりや』と思う。

さて、『キチキチ』は大阪弁で目一杯の状態を指す言葉だ。
今の大阪の子は「この服、きっつい、きっつい」と言ったり、「この服、パンパン」と言う表現も使っている。

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2009年11月 3日 (火)

100年ほど前の言葉を話す女

話す言葉のせいもあって、70代半ば以上の男性からよぉ(=しばしば)、「あんたと喋ってたら、うちの母親と喋ってるみたいで……あんた、まだ若いわな?」と言われる。
『そら、お宅さんよりわこ(=若い)おますがな』と、時には吹き出しそうになりながら、「へぇ、丁度、○○さんとこのお子さんと、よぉ似たもんの年齢とちがいますやろか。うち、今年で51です」
「えっ、ほなら(=それなら)、あんたうちの娘と同い年や。はぁ~、そうかいなぁ」

こんな事を言う男性の育った環境は、大阪市内で商売をしていたお宅の出の人が多い。
女性では、滅多にないので、「男の人は、いくつになってもお母ちゃんが恋しんや」と思っている。

70代半ばの人の母親の年齢となると、100歳前後になる。
「うちの話す言葉は、100年ほど前のもん」となるが、幸い、ポッドキャストでご一緒して頂いた舞台美術家の竹内志朗先生はじめ、70代以降のお知り合いの方も多く、その方々と話すときは、互いに何不自由なく気楽に会話ができる。
ところが同年代や年下の人達と会話する折には、時に解説入りで話を続けることもある。
が、それはそれで、これもまた互いに面白いものだ。

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2009年10月30日 (金)

33年ぶりの会話

縁は、ほんまにおかしな所で繋がるもんですわ。
とある会ででぉうたお人と話してたら、そのお方、なんとうちの高校の同級生と親しい付き合いがあるちゅうのが判りましてん。
ほんで、そのお人が、同級生のその子に早速連絡してくれました。
今や中年、51才の男の人ですけど、うちにとったら、いつまでも「子」がつきます。

その子ぉから電話があって、開口一番、「おい、何年ぶりやろ?」と問うてきます。
「かれこれ33年ぶり」と答えると、
「最後におうたんは、お前の家に他の奴らも集まって、皆で飯食うた時とちゃうか」と、まぁ、よぉ覚えてますねん。

33年間の空白の時間は、まるでなかったかのように話は弾みました。
嬉しい事でおました。
縁の不思議と繋がりに、「おおきに、おおきに。有難うございました」と連絡を付けてくれたお人に心から感謝してます。

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2009年10月28日 (水)

大阪弁:「なぁて」

気付いたら、周囲では、問いかけの始めの言葉に、「ねぇ」と言っている人が多い。
「なぁ」も余り聞かない。
「そや、『なぁて』は?」と考えたが、「言うてる人、殆どいてへん」と思う昨今だ。

『なぁて』は、話し始めに付ける大阪弁で、『ねぇ』と同じ使い方をする。
なぁて、この前頼んどいたやろな。あの話、どないなってんねん」
(=ねぇ、この間頼んでおいたでしょ。あの話、どうなっているのよ)

言い様によっては、しつこく聞こえる。
また、「なぁて、あかんのん?」などと、少し甘えた風に可愛い女性が言うと、それはそれで胸キュンとなる男性も出てくる。
使い方で印象がグッと変る大阪弁の一つだ。

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2009年10月26日 (月)

大阪弁:「骨仕事(ほねしごと)」

今まで、『しゃぁないわ~、この人、なんせ、話食いやよって』
(=仕方がないわ。この人は、何しろ、すぐに人の話に横から割って入ってくる人だから)
と感じる人がいた。

例えば、AさんとBさんが“木の実の話”を始めたとしよう。
話が始まったと察知すると、Xさんは驚くべき速さで必ず割り込んでくる。
「ところでこの前ね、それがやな」の言葉で二人の会話を中断させ、内容から外れている話を、いかにも「よぉ知ってまっせ」と自信満々で喋る。
『あぁ、難儀なお人や……Xさんの話が一段落するまでしんぼ(辛抱)やな』と諦める。
とにかく、話の中心をご自分に持っていきたがるXさんだ。

今までは『話食い』・『難儀な人』という言葉で、毎回の厭な思いも抑えてきた。
「よろしがな。ほっときまひょ」と思えればいいのだが、未熟者の私は勘に障ってそうできない。
ある時、その解消法を見つけた。
助けは大阪弁にあった。
Xさん恒例の話食い行為が始まると、『骨仕事(骨の折れる仕事)や。その内、止む(やむ)、止む」と思うようにした。
骨仕事、つまり「これも仕事の一つや」と思えば、少し気が楽になった。

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2009年10月23日 (金)

大阪弁:「散ばら髪(さんばらがみ)」

思い返してみると、祖父母から髪についての注意は、結構多かった。
明治生まれの祖母は、ずっと同じ『髪結いさん』でアップに結って貰っていた。
殊に髪の乱れを祖母は「だらしない」と嫌い、「わての我慢できん事」の一つにあげていた。

幼い頃、私は腰まである長い髪を三つ編みにしていた。
45年ほども前になるだろうか。毎朝、祖母の前に正座をすると、丁寧に黄楊の櫛(つげのくし)で髪を梳いてから三つ編みを編んで貰っていた。
日曜日の朝、ヌボ~ッとした顔と乱れた髪のまま祖母の前に出ると、「散ばら髪(さんばらがみ:乱れた髪)やがな。 あたかっこの悪い(=非常に格好が悪い)、そんななりそんな風体)してたら……あのまぁ、ほんまに」と呆れて、最後は少し悲しそうな顔をした。

今はショートヘアーで、私を見ても髪の長い時分を想像できない人も多い。
くせ毛で、寝起きの毛先はあちこちに向かって飛んでいる。
それでも叩き込まれたものなのか、出かけるときは鏡の前に立ち、「短うても、散ばら髪はあかん。それなりにきちんとしとこ」と気をつけている。

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2009年10月20日 (火)

大阪弁での打ち合わせ

舞台美術家の竹内志朗先生には、ポッドキャストで私と二人の大阪弁のお喋りを配信して、お世話になっていた。

ちなみに、ポッドキャスト:『トリビアな大阪弁』
番組アドレス:http://portal.podcastjuice.jp/dirretrieval/feed_detail.cgi?categoryid=15&blog_id=12449&slisttart=0
番組内容:はんなり、まったりした大阪弁のあれこれ話。大阪市内の真ん中で生まれ育った舞台美術家・竹内志朗氏と、親子ほど年の離れた私・松尾が繰り広げる大阪弁ぶっちゃけ放談。文字では表せない大阪弁の微妙な抑揚、音の強弱、言葉のニュアンスを、直にお届けする。

登録者数は24830人を越えた。

その竹内先生が舞台美術を担当。私は脚本を書かせて貰ったのが下記公演だ。

”森千紗花ワールド”
【一部】
  「灰の中から3億円」 
     作: 松尾成美 演出: 吉村正人 美術: 竹内志朗
     出演者:
     森 千紗花、大竹修造、前田写楽、河西秀樹、三好 香、辻本佳史 他

日時: 11月22日(日) 昼の部13:30~ 夜の部17:30~ (開場は開演の30分前)
会場: ワッハホール
料金: 前売券 4,000円 当日券 4,500円

Pコード予約 397-907 チケットぴあ TEL 0570-02-9999

主催: ㈱ギャグナーインターナショナル 森千紗花後援会 
お問い合わせ: ㈱ギャグナーインターナショナル 06-6773-3441

竹内先生と原稿を前にしての打ち合わせの席では、「先生、ここでワチャワチャが入って」と示せば、「ここで入れるねんな」と確認しながら話は続く。
ポッドキャストで喋っている通りの言葉で打ち合わせが終わった頃に、「先生、ワチャワチャも今のお人では意味わかれへんかもしれませんわ」と苦笑いする事が多い。

※わちゃわちゃ:大勢がめいめい口々に喋るさま。<『大阪ことば事典 牧村史陽 編 講談社学術文庫より>

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2009年10月19日 (月)

冷え性なのに靴下嫌い

寒くなってきた。
「ほんまに、冬眠したい」と思うほど、寒いのは苦手だ。

小さな頃から冷え性で、少しでも気温が下がると、手足が冷たくなって困った。
それなのに、靴下を穿くのがイヤで仕方がなかった。
『冷たいのとボア~ッとぬくなっていく感覚を比べたら、冷たい方がマシ』だった。
そんな説明は幼い時分はできなくて、「この子は靴下穿け言うても、穿けへんのやさかい」と母は色々と策を練った。
「3つまでなら靴下穿かせた上から、紐で括って、脱げれへんようにしてたんやけど、すぐに取ってしもた」と、3才以降、無理に靴下を穿かすことを母はやめた。
中学生の頃になると、「また裸足で! そんな冷たい足しとったら、子ぉも産めれへんようになるぞ」と父に叱られた。

今でも靴下を穿くのは嫌いだ。
70半ばの両親が、冬場でも実家に入るとすぐに靴下を脱ぐ娘に「ほら、また靴下脱いで」と時々言う。
流石に50を超えると父の「そんな事しとったら、子ぉ産めれへんようになるぞ」の言葉はなくなったが、『お前、その内、神経痛にでもなったらどないすんのや』と思っているようだ。

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2009年10月15日 (木)

大阪のおばちゃん典型タイプ

大阪市内の映画館は、水曜日を“レディースデイ”と称して、1000円で映画1本を見ることができる。
昨日、難波にある映画館に行ってきた。

入り口で『ゼロの焦点』のキャンペーンで、油とり紙を配っていた。
私の後方でそれを貰ったおばちゃん二人が、大きな声で話し始めた。

「これ何?」と手渡された途端に一人が言った。
「何、くれた?」と、こちらも同様だ。
二人で中身を確認している音がして、「油とりや!」と一人が叫ぶと、「あぁ、油とりかいな!!」とそれ以上に大きな声でもう一人も言った。

『油とり紙やのぉて、油とりと言うてしまうと、天麩羅揚げる時に使うキッチンペーパーみたになってしまう』と思った。
「油とり」という言葉が、その後、何度かあって、二人はトイレに消えた。

何でもない会話なのである。
今や大阪のおばちゃんはと言えばこんな感じの典型とは言え、声のボリュームや言葉の使いように全く奥ゆかしさを感じない。
明治生まれの祖母は、「そない大きな声で話すもんやない」と、場所によっては私を窘めた(たしなめた)。
先程のおばちゃん二人は、私よりも年上の60前後のように見受けられた。
『お宅さん等、窘められたこと、おまへんか?』と、黙って彼女たちの後ろ姿を見送った。

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2009年10月13日 (火)

敵わん患者第一号

お菓子の中では、醤油味のおかきが一番好きだ。
これさえあればご機嫌だったが、食べ過ぎて調子が悪くなったこともある。
消化不良だ。
昭和35年頃だから私は2才前後のはずだ。その頃に起こった、祖母が笑って繰り返し聞かせたお話。

「ぐずってしょうないんです」と、祖母が、開業したばかりの内科・小児科の先生の所に連れて行った。
受付は奥さんがしていた。
先生はお腹の張っている私を診て、「便器を診察室に持ってきて」と奥さんに告げ、ピカピカの診察室におまるが用意された。
浣腸後の排便物を見て、「おかきの食べ過ぎやな」と先生は呆れたようだ。

幼すぎて、この記憶は私には残っていない。
だが、先生と奥さんには、「成美ちゃんのカルテ、うちの患者第一号やさかい、ずっと取ってあんのやよ」と大きくなってからも言われ、その度に嬉し恥ずかしの気分になった。
長くお世話になった先生だったが、今はもう亡くなっていない。
おかきを食べる度に、時々、その先生のくせ毛でクルクルとカールした毛先があちこちに飛んでいた頭を思い出す。

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2009年10月12日 (月)

懐かしの乳ボーロ

明治生まれの祖父は、ビスケットが好きだった。
昭和33年(1958年)生まれの私には、幼い頃は乳ボーロをよく与えていた。
子育ては祖父母の手でなされていたので、乳ボーロは手軽で消化が良く、離乳食の頃ともなると、祖父は食事の合間のおやつに私の口に入れていたようだ。
乳ボーロは衛生ボーロとも言ったが、物心着いた時分の私は、このお菓子が甘すぎて苦手だった。

口に入れるとすぐに溶けて形がなくなるのも、歯ごたえがなく、物足りなかった。
祖父の食べるビスケットの方が歯ごたえがあって、『乳ボーロよりもビスケットの方がええ』と思っていたが、その事は口に出さなかった。
「乳ボーロはお腹によぉて、滋養になる(=お腹に優しくて、栄養になる)」と、祖父は常備食のように買い込んでいた。
小学3年生の頃になっても、「成美、乳ボーロ食べ(=食べなさい)」と手に渡され、一旦握って「どうしょう。食べたないのに」と悩み、祖母に「もういらん」と返したことがある。

何でも過ぎると人は嫌気がさす。
私の場合、当て嵌まるのがこの乳ボーロ。食べ過ぎて、「結構です」となってしまった。
今でも乳ボーロを見ると、懐かしさは湧いてくるが、食べたいとは思わない。

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2009年10月 7日 (水)

御身大切(おんみたいせつ)

大きな台風が近づいてきている。
母から昨日電話があった。
「もしもの時は、あんた、どこへ避難してる?」と問うてきたのがきっけで、過去の台風襲来時の話になった。

「いつの台風やったか、自分だけ逃げて、あの子(=私の妹)放っておいて。おばあちゃんに『下の子ぉ、どないしたんや?』と声掛けられてから、『あっ、忘れてきた!!』と気ぃついて。ハハハ、フフフ」と笑った。
「おかあちゃん、御身大切(おんみたいせつ:自分の体が一番大事の意)やさかい。フフフ」と、また自分で自分の事を笑っていた。

事が起こったのは、1961年(昭和36年)の第2室戸台風の時だ。
当時、祖父母の家は木造だったが、風呂場だけは鉄筋の造りだった。
3才の私は祖母にしっかり手を握られて、居間から風呂場に移動した記憶が、ぼんやりと残っている。
祖父母に挟まれて風呂場の中で直立していたが、日常とは違う雰囲気だけは感じていた。
ところが妹はまだ赤ちゃんで、何も判らず、動けず、居間に一人取り残されたていた。
「はよ、連れてこな(=連れて来なさい)」と祖母に言われ、母は慌てて風呂場から出て行ったらしい。

御身大切な母は73才、今日も元気だ。
「ほんま有難いなぁ。子孝行やわ、お母ちゃん」と感謝している。

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2009年10月 3日 (土)

袖すり合うも多生(他生)の縁

“袖すり合うもたしょうの縁”
この『たしょう』を、ずっと『多少』だと思っていた。

ところが過日、知り合いから、「たしょうは『多生』、または『他生』と書くんですよ」と教えて貰った。
『多生』も『他生』も、前世を意味すると同時に教えてくれ、「ですから、松尾さんと知り合ったのも、前世からの何かのご縁です」と言っていた。

縁があって結婚した相手とは、相性が合わず離婚した。
別れた相手も、きっとそう思っていることだろう。
「そうすると、あの人との前世の縁は、一体どんなもんやったんやろ?」
最悪の縁とまで思った時期が長かった故に、「もしも前世があって、来世があると考えるなら、来世には出会いとうない人やわ」と、ポツリポツリと思う秋の夜だ。

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2009年9月30日 (水)

大阪弁:「ひっくりかやす」

何でもない日常の言葉に、「これは今使てるやろか?」と思うことがある。

「ひっくりかやす」と言ってから、「ひっくりかす? ひっくりかす? あれ??」と考えた。

明治生まれの祖父母は、「ひっくりかす」と言っていた。
その二人に育てられたので、元々使っていたのは、「ひっくりかす」だった。

意外にも、小中高の学生時代は余り周囲の言葉の影響を受けなかった。
時には言葉の違いを冷やかされる事はあったが、冷やかす方の喋る地元の和歌山県紀北地方の言葉に馴染めなかった。
祖父母、及びその周囲で使っている一昔前の大阪弁の音の響きが好きだった。

しかし、娘達との生活で今風の言葉の影響は受けてしまう。
それが、「ひっくりかす? ひっくりかす? あれ??」となってしまう。
娘達は、「ひっくりかす」と言うのだ。
「ひっくりかす? ひっくりかす?」と戸惑い、「うち、どないしたんやろ」と、妙に悲しくなる。

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2009年9月24日 (木)

大阪弁:『こすい』・『すこい』・『ずっこい』

『こすい』・『すこい』・『ずっこい』は、「ずるい」を表わす大阪弁だ。
しかし、この頃は『こすい』・『すこい』と使っている人が、周囲に少なくなった。

記憶を辿れば、昭和30年代では、『こすい』という大阪弁はまだまだ使われていた。
昭和40年代、私が小学生の頃を思い出せば、相手のずるいやり方に腹を立てた子が、
「ほんま、こすいなぁ」
「おまえ、すこいことすんなよ」
こんな風に使っていた。

今、21歳の次女に「こすいって判るか?」と尋ねてみた。
「せこいちゅうことやろ」と返ってきた。
『せこい』の意味は、『しぶちん(=けちんぼ)』のことだ。
許容範囲の狭い性格を指して『せこい』と使う時もあるのだが、「ずるい」の意味の『こすい』とは微妙に違ってくる。

「すこいはどない?」と再度尋ねると、「わかれへん」と首を横に振った。
最後に「ずっこいって判るか?」と問うと、「うん」と首を縦に振った。

起き抜けに突然言葉調べを受けた次女は、ここまで言って、私の前からスーッと去っていった。

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2009年9月16日 (水)

経営者と奉仕の精神

商売人の子である。
こう聞いた人の抱くイメージは、「愛想よし」「そつがない」の他に、「損得勘定に長けている」というのもあるかもしれない。

商売人の家で育ったことと、マーケティングの世界でも仕事をしていた経験+物書きの分析力からか、私の経営者を見る目は、自分でも「ちょときつい(=少し厳しい)」と思う。

近頃、私の知る範囲での経営者を見るにつけ、考える。
繁盛する店を持つ経営者や、手堅い経営方針で会社を潰さず長年存続させている経営者の中には、「損得勘定に長けている」だけではないものがある。
それは、「損得勘定」だけに走らない、奉仕の精神だ。
奉仕の先は、従業員の時もあれば、世の中の時もあれば、例えば学校を経営しているのなら学生の時もある。

たまに口先だけの言葉ばかりで繋いで喋る経営者に出会うと、底が見えてしまう。
『さて、ここ、現状でいつまでいけるやろか?』と、よく動く口元を見て、相槌を打ちながらも腹の中では思っている。
そういう人が、「何かの役に立ちたい」と言っても、飾り言葉の一つにしか感じられない。

51歳を越えた。
年齢を重ねることは、今までとは違った物の見方が増えてくるものだ。

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2009年9月14日 (月)

ビジネスマナー:返礼メール

相性の合う、合わんは、直感で判断することが多い。
不思議なもんで、大抵当たる。

物書きの場合、書いている内容や、文体はいかにも優しい雰囲気を醸し出しているのに、ご本人に合ってみると、『思てた印象と、どこぞが違う』と感じる人もいる。
短い時間の会話の端々に、その人の“無駄な物は切って捨てる”感覚を感じてしまうと、抱いていた人間的な優しさは吹っ飛んでしまう。

そんな人に、お節介な私は、「こういう仕事があるのですが」と、仕事の紹介メールを送った。
「もしも、する気があるのなら、先方に連絡して下さい」と添えた。

私にも先方にも連絡はなかった。
「その仕事はしません」という意思表示だろうが、こういう場合は、紹介した私に『折角のお話ですが……』のメールを一本返すべきだろう。
人間関係で仕事が広がることの多い在阪ライターの世界だ。
偉そうに言うわけではないが、「お宅さん、返礼メールの一本が次の仕事に繋がるちゅうこともおまっせ」とボソッと呟いた。

何業でも言える。
返礼メールは仕事を広げるきっかけにもなるのだから、「手ぇ抜かん方がよろしで」と思っている。

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